当社の歩み

 延暦十八年(799年)『日本後記』には、「甲斐の人、止弥若虫等に日本風の姓、石川を与えた。」と記されております。この「甲斐の人」とはどのような人々なのか。七世紀後半の663年、日本と百済(くだら)の連合軍が白村江の戦い…

 延暦十八年(799年)『日本後記』には、「甲斐の人、止弥若虫等に日本風の姓、石川を与えた。」と記されております。この「甲斐の人」とはどのような人々なのか。七世紀後半の663年、日本と百済(くだら)の連合軍が白村江の戦いに破れ、多くの渡来人が日本に亡命してまいりました。この中のある一団がその後、甲府盆地の西寄り、すなわち巨摩郡(現在の南、中、北巨摩郡)に移り住んだであろう事が『日本書記』に記されております。これが「止弥若虫」たちではないかといわれております。

 当社の起こりは、同じく南巨摩郡身延町下山に本拠を置く「下山大工」という大工集団でありますから、石川姓を持つ私どもは先に述べました渡来人の末裔ではないかと考えております。更に先祖の足跡をたどります。最も古い記録は保元元年(平安時代1156年)に西保郷中小石川辺(現在の牧丘町西保中)に安田義定公の保田山城を築城したというものです。安田義定公は、源平合戦では義経と行動を共にし、大将格として平家追討に大きな功績をあげ、遠江国を支配した甲斐源氏の有力な武将であります。ここでは、棟梁下山石川信濃守信高という棟札が確認されております。

 また、石川一族の足跡を文化財に指定されている建築物について見てまいりますと次の通りです。

正保三(1646)年浅間神社本殿南部町指定文化財棟梁石川久左衛門家次
元禄二(1689)年一宮賀茂神社本殿身延町指定文化財棟梁石川傳右門
元禄四(1691)年本照寺本堂市川三郷町指定文化財棟梁石川傳衛門
元禄八(1695)年表門神社本殿市川三郷町指定文化財棟梁石川久左衛門家久
元禄八(1695)年表門神社神楽殿市川三郷町指定文化財棟梁石川○右衛門重良
明和四(1767)年甲州善光寺山門国重要文化財棟梁石川久左衛門致栄
寛政元(1789)年甲州善光寺金堂国重要文化財棟梁
脇棟梁
石川政五郎共重
石川大佐衛門重貞
文化元(1804)年聖応寺仏殿笛吹市指定文化財棟梁石川源三郎
文政年間
(1818~30)年
向嶽寺仏殿甲州市指定文化財棟梁石川源三郎
文政二(1819)年中富町若宮神社本殿身延町指定文化財棟梁石川七郎左衛門重甫
文政六(1823)年南部町八幡神社南部町指定文化財棟梁石川七郎左衛門重甫
天保十三(1841)年鬼子母神堂(羅刹堂)身延町指定文化財棟梁石川嘉門源重甫

 また、この他に昇り龍下り龍の彫刻で有名であった御岳金桜神社神楽殿(善光寺金堂の脇棟梁石川大佐衛門重貞の作)、久遠寺大方丈(明治の大火で焼失)、甲州市塩山にある恵林寺の仏殿(明治38年当時)や、武田信玄公の霊廟屋(棟札に棟梁 石川與三左衛門藤原政次)などもございます。


武田信玄公の霊廟屋の棟札

 そして、当社に伝わる古文書の中で特に重要と思われるものに、甲州善光寺金堂の棟梁石川政五郎共重の肖像画がございます。この裏書には、善光寺金堂と金桜神社神楽殿についての記述がございます。


石川政五郎共重 肖像画

 また、石川七郎左衛門重甫の著しました『匠家くり形 初心伝』は印刷され、下山大工の手引書となり、当時は広く全国の多くの工匠達に読まれたものとされています。


石川七郎左衛門重甫による『匠家くり形 初心伝』

『匠家くり形 初心伝』内部

 石川家所蔵古文書の表
「うみの子を 幾ちとせとや まもるらん
なかくさか行 墨縄のみち」

 その後、大正七年家業を継いだ前々社長石川孝重は、新たに石川工務所を設立、昭和38年法人に改め現在に及んでおります。この間、技術の修練、徒弟の育成に専念し、特に財団法人文化財建造物保存技術協会監督、広瀬沸氏等の御指導を得、多くの国県指定の工匠をかかえ、文化財修理工事、社寺建築工事において数々の実績を残して参りました。


広瀬沸氏による金桜神社の青図

 今後尚一層の技術向上に努め、御信頼に応えてまいる所存でございますので、何卒旧倍の御指導と御引立てを承りますようお願い申し上げます。

伝匠舎 石川工務所 代表取締役社長
石川重人